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医学生が見た相馬・南相馬
一條貞満(東北大学医学部医学科5年)

2011/04/22

 私は東北大学に通う医学生である。被災して以来、4月25日に授業が始まるまで、関東で生活する予定だ。4月5日から、地震医療ネットの事務局を手伝っている。

 4月7日から10日まで、森甚一医師(都立駒込病院)と一緒に、相馬市のベテランズサークルという老健施設に泊まり込んだ。そして、12日から14日までは東大医科学研究所の坪倉正治医師、星槎グループと共に、相馬市、南相馬市で活動した。余談だが、私の亡父は相馬出身だ。私にとって親しみがある土地だ。

 先日、都立墨東病院の岩本修一医師が、ベテランズサークルを訪問した状況を報告していた(岩本氏のリポートはこちら)。岩本医師の滞在中は、施設の担当医が休みなく働いているときであり、厳しい状況が続いていたようだ。私たちが訪れたときは、そのころとは打って変わって、全く平常だった。食料は豊富、ボランティアも充実。施設としては何も問題がなかった。

 私は学生であり、何も専門性がない。しかし、白衣をもらったため、医者のフリをしながら、専らおばあちゃんたちと世間話をした。職員さんいわく、「何もしなくても、先生が来ただけで老人なんて治っちまうんだから」とのことで、それを聞いた通りに実行した。しばらく1人のおばあちゃんと喋って、軽く別れを告げてから他の人の所に行こうとすると、深々と頭を下げ、感謝の意を伝えられた。靴下やら折り紙やらバスタオルやら、たくさんお土産を持たされ、帰って来た。不思議な感覚だった。

 相馬市の総合病院にも伺ったが、こちらも安定していた。地震発生当初は、スタッフが避難してしまい、かなり忙しかったらしい。それでも「残った人でなんとか踏ん張り、今に至った」「残った人たちの結束が強くなり、自分の仕事が何なのか再確認する、いい時間だった」と看護部長は話していた。何もしていない人が、今回の地震に対して「いい時間」などと言ったら不謹慎すぎるが、仕事を投げ出して逃げた同僚がいる中で、患者を守り続けた彼女たちを尊敬した。「4日もお風呂に入らないと、なんだかお肌、カサカサを通り越して、油でつやつやしてきたのよね」。腹が据わった人だ。

 今回、相馬市長の立谷清秀氏とは2回お会いした。迫力のある人だった。震災からの相馬市の復興は、彼の力なくしては語れない。地震直後から津波が来るまでの間、消防団と無線で連絡し、被災者を少なくしようと尽力した。津波の後、日が沈むまで、被災者の救護を急いだ。彼の頭の中に、相馬市の地形が入っていたのは大きい。そして、被災地域から想定される死者数を10分の1に抑えた。それでも、死者が出てしまい、最後まで前線にいた消防隊が命を落としたと市長は悔いていた。「俺の肩にはあいつらの霊がいてな、このばか市長って言ってるよ」と涙を浮かべて話した。あれから市長は、消防隊の法被を必ず着ている。

 相馬市長は、自分をワンマンと言っていた。悪い言い方をすればそうなのだろうが、自分から見れば、最高のリーダーだった。被災直後から、これからの仕事を夜通し書き出し、指示を出した。市民の翌日の朝食まで手配した。国からの物資を待たず、医療物資・水食糧を自分の知人からかき集め、ライフライン・避難所・仮設住宅の建設を急いだ。

 相馬市の学校給食は今週月曜からだが、給食センターが開くのは4月25日からだった。給食が用意できない状況だったが、ローソンが計10500食分の弁当を引き受けてくれた。ローソンが当初提供するつもりだったのは3000食だったが、追加を快く引き受けてくれたらしい。このように、すぐ動いてくれる団体が被災地には必要だ。みなさん、後でローソンに行きましょう。

 相馬市では沿岸部を案内してもらい、津波のむごさを見た。急場が終わった相馬、南相馬では今、医療が問題なのだと市長は話していた。しかし、雇用問題は同じくらい重い問題だ。市長は、医療・教育が中長期的な問題で、今解決すべき問題でもあるが、雇用問題は長期的な問題で、医療・教育関係が落ち着いたら本格的に取り組もうと考えているようだ。

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