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大震災の現場から Vol.41
原発事故で医師半減、病院運営の苦境続く
東電賠償の対象外に憤りも

2011/10/01
医療法人石福会 四倉病院 事務長 大谷勇

 福島県では原発事故の影響で、医療従事者の相次ぐ退職に頭を悩ませている病院が少なくない(関連記事:2011.9.8「医師・看護師の離職が深刻化する福島」)。東京電力・福島第一原子力発電所から約36kmの距離にある精神科病院の四倉病院(いわき市)もその一つだ。6人いた常勤医は一時期3人にまで減り、現在でも4人の体制で、一部病棟の休止を余儀なくされている。同病院の事務長である大谷勇氏に、震災後の医師や看護・介護職員の雇用状況や今後の見通しなどについて語ってもらった。
(まとめ:豊川琢=日経メディカル)


福島第一原発から36kmの地点にあり、医療従事者の不足に悩まされている四倉病院。

 当病院は1973年に開設した214床の精神科病院です。海から1kmの場所にありますが、地震や津波による建物の倒壊は免れることができました。3月11日の地震発生当初は、他の被災地でも問題になった薬剤や食材、重油、プロパンガスなどの不足に見舞われましたが、電気は正常で、水も16日に自衛隊が運んでくれたので、震災の影響が長期に残るとは思いもしませんでした。ところが、医師や看護・介護職員の不足に悩まされることになり、それは今でも解消されていません。原発事故さえなければ、早期に通常の運営に戻っていたはずなのです。

 医師が去り始めたのは、震災発生から3日目の3月14日。2人が「出勤できない」と連絡してきたのです。原発事故による放射性物質汚染が大きな問題となり、影響の少ない地域に家族で避難するためでした。16日には、もう1人が同じ理由で出勤できなくなりました。

 常勤の医師は6人いたのですが、この時点で3人に。4人いた非常勤医師も出勤できない状態になりました。一方で看護・介護職員の退職も相次ぎました。震災前は約150人いたのですが、3月から4月にかけて約30人が退職。小さな子どもがいる職員が多く、旦那さんの実家に行くなど県外に避難した人たちがかなりいました。その結果、事務職員は退職金の計算や手続きに毎日追われることになりました。

 地震発生時、入院患者さんは204人いましたが、医師や看護・介護職員の減少のほか医薬品や食料などの不足もあったので、このまま当病院にとどまってもらうのは危険だと判断。原発から半径20km圏内にある双葉病院(福島県大熊町)で患者が置き去りにされたとの報道(後日、報道とは事情が異なることが判明)もあったことから、18日の夜、入院患者さん全員を他の病院などに転院させることを決めました。

 受け入れてくれる病院の当てはなかったのですが、とにかく東京の病院に片っ端から電話をかけました。一方で、ご家族に患者さんを一時引き取ってもらえるようお願いしました。最終的に6病院が計126人の患者さんの受け入れを承諾してくれたほか、残りの78人はご家族の下に帰ることになり、その夜の間に全員の受け入れ先を確保することができました。

 ところが、次に困ったのが、患者さんを乗せるバスの手配。市内にバスはあったのですが、運転手が避難してしまい1人もいなかったのです。バス会社に事情を話して急きょ運転手をかき集めてもらい、20日には患者さん全員を移動させることができました。ただ残されたスタッフは、ずっと気が張り詰めていたので相当疲れていました。私もふらふらでいつ倒れるかという状態でしたので、3月20日からは病院を休診にしたのですが、突然の閉鎖で多くの外来患者さんが保健所に駆け込み、今度は保健所がパニック状態に陥りました。結局、「外来だけでも再開してくれ」と保健所から依頼され、3月31日に院長だけの医師1人体制で外来を開始しました。他の医師はもう避難していたからです。

励まされたいわき市医師会などの支援
 避難していた医師が徐々に戻り始めたのは、震災の余波が少しずつ収まりつつあった4月。5月までに常勤医師2人が戻ってきてくれて、7月には、当病院が医師不足で診療できなくなっていることを報じた新聞記事を見て休職していた医師が復帰してくれました。ですが、残りの常勤医師2人は退職、パートの医師も代わりをなかなか確保できない状態でした。原発事故による放射性物質汚染の影響が大きく、「戻ってきてくれ」と無理にお願いすることもできませんでした。

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