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接遇技術とコミュニケーション、その似て非なるもの

2012/05/01
尾藤誠司

 今回は、接遇コミュニケーションについて書いていきたいと思います。最初に言い訳しておきますが、私は医療職には接遇技術が必須で、接遇技術を高めることは医療職に従事する者として、責務の1つだと思っています。しかし、私は接遇技術を高めていくことが、ある意味でコミュニケーションを阻害することになり得るとも考えています。

接遇のめざす姿とは?
 最近、患者の前できちんと無礼なく振る舞える若い医師が実に増えました。彼らは学校などでちゃんとした接遇技術を学び、身に着けているのでしょう。それに比べると、オジサンオバサン医師は接遇技術がつたなく、平気で患者を怒鳴りつけたりするような、実にけしからん患者対応をする人が多いです。一方、そんな接遇もロクにできないオジサンオバサン医師が、患者との対話の中で感動的な行動を見せることがしばしばあります。ひどい言葉を使いながらも、その医師が患者と真に向き合い、診療に関する自分の意図を話している光景、患者の意図を読み取ろうとしている光景を見て、研修医も「ああいう医師になりたい!」と、グッとくるわけです。

 これはなぜなのでしょうか? オジサンオバサン医師は、実はとっておきの接遇技術を隠していたのでしょうか? 違います。接遇が苦手な彼らは、接遇とは違った形で、患者との間に感動的なコミュニケーションを持ったのです。

 私は、接遇とコミュニケーションの正確な定義についてよく知らずに書いていますが、この2つの行動は全く違う目的を持っているように思います。接遇の目指すものは何でしょうか? 私は「顧客に快適さを与えること」だと考えます。接遇上手なサービス提供者は顧客を満足させることができます。これは大変素晴らしいことです。しかしながら、「顧客に快適さを与えること」が達成されてしまえば、そこで終わりです。

 接遇のもう1つの基本スタンスは、「自分が変わらないこと」だと思います。接遇によって顧客が何らかの変化を起こすような状況に、私は遭遇したことがありません。また、接遇をする側も、顧客と接することで自身の変化というものが無いと感じます。

 多くの人は、自分が変わらないことで安心を得ようとします。接遇技術を覚えることで、自分にとって理解不能の人間と出会った時にも、きっと当たり障りなく上手に対応できるでしょう。そして、おそらく自分が傷つくことも少なくなるはずです。

 しかし、この「当たり障りのなさ」こそが、人と人とのコミュニケーションにとっての「敵」であると、私は思うのです。

マンガに見るコミュニケーションの達人
 少し医療を離れてコミュニケーションと接遇について考えてみましょう。私はずっと公務員なので(関係ないか)、「夜になると店にお姉さんがいてお酒が飲める店」にほとんど行ったことがありません。が、そこに行くお客さんは、お酒を飲みに行くというよりは、お姉さん達と話しに行くのがメーンなのかと思います。店に通う常連さんは、彼女らのすばらしい接遇に対して満足しお金を払うのでしょうが、おそらくそこにあるのは接遇だけではないと思います(想像ですが)。

 私が好きなマンガに「デリバリーシンデレラ」(著者:NON、発行:集英社)があります。主人公は普段は地味な女子大生で、介護福祉士を目指して勉強に励んでいるのですが、夜になるとガラリと印象を変え、とても人気のあるデリヘル嬢として働くのです。その彼女が素晴らしいのは、多くの顧客が喜ぶ最大公約数的なサービスを淡々とこなして人気を維持しているのではなく、顧客ごとに丁寧なコミュニケーションをとり、それぞれに対応を変え、顧客に積極的に関わっていく点です。またその結果、自分自身も影響を受け、人間として成長していくところが素晴らしく、ずっと読み続けています。

著者プロフィール

尾藤誠司氏(東京医療センター臨床研修科医長)●びとうせいじ氏。1990年岐阜大卒。国立長崎中央病院、UCLAなどを経て、2008年より現職。「もはやヒポクラテスではいられない 21世紀 新医師宣言プロジェクト」の中心メンバー。

連載の紹介

尾藤誠司の「ヒポクラテスによろしく」
医師のあり方を神に誓った「ヒポクラテスの誓い」。紀元前から今でも大切な規範として受け継がれていますが、現代日本の医療者にはそぐわない部分も多々あります。尾藤氏が、医師と患者の新しい関係、次代の医師像などについて提言します。

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