突然ですが、3月いっぱいで昭和大学医学部の教授を辞めます。「急になんで?」って思われる読者の方もいらっしゃるかもしれないので、辞職を決断するに至った経緯をちょっとお話ししたいと思います。
僕は現在50歳なので、もちろん定年退官ではありません。一言で言うなら、「大学教授って柄ではないなぁ」ってことです。とはいえ、診療科としてはチームが整いつつあり、これからってところもありました。それでも辞めようと決めたのは、大学が求める心臓外科と僕がやりたいことの折り合いがつかなかったからです。
「昭和大学に心臓外科なんてあったっけ?」から8年
2004年の赴任当初は、挨拶に足を運んだ方々の施設で、「昭和大学に心臓外科なんてあったんだっけ?」などと、冗談半分の軽口であしらわれることも珍しくありませんでした。それから約8年、自分なりにはとても頑張ったつもりです。以前のように小馬鹿にされるようなこともなくなり、「昭和大学医学部胸部心臓血管外科」も、ちょっとは認められる存在になったと自負しています。
しかし、その間も、“孤軍奮闘”の感がぬぐえませんでした。大学には度々お願いしていたのですが、手術に使う器材や先進的な装置の整備は、自分の希望通りには全く進みませんでした。低侵襲心臓手術(MICS)に必要な器材は企業の皆さんからの寄付金がなければ購入できませんでしたし、人工心肺装置も、新しいものを導入したかったのですが、結局かないませんでした。手術支援ロボット「da Vinci」についても、購入を承諾していただいたと思っていたのですが、やはり実現しませんでした。
分院の教職ポストがジャックされ…
自分にとってダメ押しだったのが、大学分院の心臓外科における人事の問題です。細かい経緯は省きますが、一つの分院が、他大学の心臓外科チームに“占領”されてしまったのです。僕は、大学からの要請で2人の外科医を派遣する準備を整えていたのですが、赴任の2週間前に突如キャンセルされました。いまだに、理由は全く分からないままです。
開いた口が塞がりませんでした。ちなみに、その分院の心臓外科のトップは当学出身者。卒業生が赴任できる貴重な教職ポジションを他大学のチームにむざむざ明け渡し、それを大学も認めるとは…。赴任予定だったスタッフには合わせる顔もなく、そのうち1人は、その後に僕のチームから離れていきました。
大学や分院側がそう決断したのには相応の理由があり、自分にも何かしらの落ち度があったのかもしれません。ただ、本院の教授としては致命的な名折れですし、到底納得できるものではありませんでした。
また、教授に着任する際には、本院だけでなく、心臓外科を担当している分院の医療体制や診療のクオリティーについても僕がコントロールするという話でした。少なくとも僕はそう思っていました。ところが、分院に関する僕からの要望は、結果的にはほとんど受け入れてもらえませんでした。去ることになった僕が言うのもおかしな話かもしれませんが、分院について何もできなかったのはとても悔しく思っていますし、「トラブルが起きなければいいのだが」と心配もしています。それと同時に、結局のところ何もできなかった自分の力不足も感じています。
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連載の紹介
昭和大元教授「手取屋岳夫の独り言」
「最近の日本の医療って、ちょっとおかしくない?」…と愚痴は出るものの、医師という仕事はやっぱり素晴らしい!一外科医として、大学教授として、教育者として感じた喜び・憤り・疑問などを、時に熱く、時には軽〜く、語ります。
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