埼玉県川越市の川越救急クリニックは、救急診療に特化した診療所だ。院長の上原淳氏は「多くの医療機関の対応が手薄になるときにこそ、地域住民の役に立ちたい」との思いから、夜間・休日の診療に特化。救急搬送時の診断にはVscanを活用している。
「総合的に救急を診る医師」。これが、私が目指している地域における救急クリニックの医師像です。開業から2年半、この目標に向けて努力を続けてきました。
埼玉県は、人口10万人当たりの医師数が日本で最も少ない県です。夜間や休日の突然の病気やけがに対応できる医療機関も限られているのが現状です。そこで私は、3次救急機関で積んだ経験を生かし、“医療過疎”の埼玉県で、地域住民の健康面の安心を少しでもサポートしたいと考え、2010年7月に開業しました。
私は1989年に産業医科大学を卒業し、麻酔科の医局に入局しました。大学病院に半年間勤務した後、門司労災病院の麻酔科で2年間過ごしました。手術件数はそれほど多くはなく、上司の勧めもあって、英語の原著を読みまくりました。その蓄積は今も臨床で生きています。
九州厚生年金病院の麻酔科に移ってからは、心臓外科の手術をはじめとして様々な手術に立ち合い、麻酔科医としての腕を磨き、麻酔指導医の資格を得ました。しかし、ここでふと疑問が湧きました。「指導医だろうと、研修医だろうと、手術が滞りなく終われば、同じ技量と評価される。“腕の差”が結果に結び付く道はないだろうか」と。
そして、それまでの経験から興味を持っていたICU、救急分野への転進を考えました。しかし、麻酔科医を必要とする救急の施設は多くはなく、ようやく福岡市立こども病院のNICUに入ることができました。私はここで初めて、子供の医療、子供の麻酔を経験しました。
その後、幾つかの病院や産業医を経て、九州厚生年金病院が2次救急医療を新しく始めると聞き、そのチームに加わりました。チームと言っても、実際には「麻酔科医長、救急担当」という肩書きで、たった一人で救急を担当することになったのです。
でも、ここでは、研修医をいくらでも動員してよいとの許可を得ていたので、例えば「腕が痛い」という患者さんが来れば、整形外科の研修医を呼んで一緒に対応するといった具合に、広い分野の救急医療を経験することができました。
少年の死をきっかけに3次救急の世界へ
当初は月に3台しか来なかった救急車も、3年後には300台に増えるまで、実績を積み上げました。しかし、ある「避けられた死」をきっかけに、3次救急の経験を積もうと決心したのです。
それは、バイク事故で搬送されてきた19歳の少年でした。病院到着時は「痛い」「どこが痛い?」といった会話も交わせたのですが、CTを撮影し、血胸であることが判明した直後から容体が急変しました。急いで胸部外科医を呼びましたが、出血部位が分からないまま、大量の出血を止められず、少年は亡くなりました。
日本には外科医は多いものの、その大半は癌が専門です。救急対応できる外科医がいかに少ないかを知り、がくぜんとしました。「もし自分に3次救急の知識、技術、経験があれば、患者を救えたかもしれない」と考え、次の道を探し始めました。
そして、日本救急医療財団の研修で、埼玉医大総合医療センター高度救命救急センター教授の堤晴彦先生に出会い、すぐに「堤先生と仕事をしたい」と申し入れ、その要望を聞き入れてもらいました。
2001年に同センターへ赴任し、当初は「麻酔科医が何しに来たの?」という目で見られましたが、麻酔も鎮痛もお手の物という点が重宝され、救急だけでなく、ICUでも様々な経験を積むことができました。しかし、4年目に医局長となり、病院の医局以外の人や行政など病院外の人との接触が増えるにつれ、救急の置かれた位置、自分の今後のキャリアについて考えるようになりました。
3次救急はチームの力がものをいいますが、2次救急では、医師の力量によって患者の予後が左右されます。「3次で積んだ経験を2次救急で生かしたい」と改めて強く思いました。また、大学病院の救急が1次、2次の救急にも対応せざるを得ず、現場のスタッフが疲弊していた現実を目の当たりにして、「彼らの負担が少しでも軽くなれば」との思いから、埼玉医大総合医療センターの近くを開業場所に選びました。
診療時間を金・土・日・月と祝日の16~22時にしたのは、大学病院も含め、多くの医療機関の対応が手薄になるときにこそ、地域住民の役に立ちたいとの決意でもありました。