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安全学研究者から見た福島大野事件判決
古田一雄(東京大学大学院工学系研究科)

2008/10/27

ふるた かずお氏○1986年東大大学院工学系研究科博士課程修了。電力中央研究所、東大大学院新領域創成科学研究科教授を経て2004年同工学系研究科教授に就任、現在に至る。専門は認知システム工学。

1.はじめに

 福島大野事件判決については、本メルマガ誌上において医療・司法の専門家を中心にさまざまな議論が行われているところであるが、安全学研究者から見た本件に関する感想を述べてみたい。

2.リスクトレードオフとは何か

 安全学の研究者、技術者は「リスク」の概念によって思考するので、本件もリスクに基いて議論してみたい。ここでいうリスクとは、人間や人間が価値をおく対象に対して危害を及ぼす物、力、情況などを特徴付ける概念と定義され、その大きさは損害の発生確率と重大性によって表現される。そして、リスクが社会的に許容可能な水準に抑えられている状態が「安全」であると考える。

 ところで、この世の中に完全にリスクを有しない、リスクフリーな物、力、情況は存在せず、いかに危険がないと一見思えるような物、力、情況であっても、それによって人の生命、健康、財産に危害を加えることは可能である。

 「ゼロリスク」や「絶対安全」が幻想に過ぎないことは、忌々しい感情を引き起すことはあっても、常識ある人なら理解でないことではないであろう。

 あるリスクを削減して安全を確保しようとする際に、削減の対象となるリスクを目標リスクという。ここで、リスクフリーな行為はないことから、目標リスクを削減する行為は必ず別の新たなリスクを発生させる。このようなリスクを対抗リスクと呼ぶ。目標リスクの削減には必然的に対抗リスクの発生が伴うが、かといって何もしなければ目標リスクはそのまま残ることになる。

そこで、安全対策としてできることは、目標リスクと対抗リスクの間で取引をし、全体としてリスクを望ましい方向に変化させることだけで、これがリスクトレードオフの考え方である。

3.医療におけるリスクトレードオフ

 医療行為は、傷病による患者の健康リスクを目標リスクとして、その削減を行う行為であるが、医療行為が身体に対する侵襲を伴うものである以上、対抗リスクの発生が避けられない。したがって、ある医療行為の是非はリスクトレードオフとして判断する以外にない。

 業務上過失致死傷事件を対象とする従来の司法判断においては、行為と被害発生との因果性、被害発生の予見可能性、代替行為による回避可能性が主な争点であった。しかし、対抗リスクの発生が必然である以上、望ましくない結果となった場合の因果性、予見可能性は争う余地のない自明のことである。

 回避可能性については、その時点で治療を放棄すれば、確かに問題となった行為で被害が発生し得ないという意味で、やはり自明のことである(ただし目標リスクが残って患者は死ぬかもしれない)。これでは、医療行為は成立しようがないであろう。

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