キリスト教社会運動家の賀川豊彦(1888~1960)は、1909(明治42)年、21歳のとき、
神戸葺合(ふきあい)新川の貧民窟に入って以来、
働く者を幸福にする社会を築かねばならないと考えるようになった。
その原点は「貧民心理の研究」や自伝的小説「死線を越えて」などに記されている。
賀川は神戸の造船会社の大争議の指導をした後、農民運動にのめりこんだ。
太平洋戦争中は、多くの宗教家と同じく、戦争に協力的な姿勢を示したともいわれる。
「日本の生活協同組合の父」でもある。
その賀川が実践的に取り組んだ活動に「医療利用組合」運動がある。
1936年、医療統計などなかった時代に賀川は独自にデータを集め、
「貧困予防策」としての医療組合がいかに重要かを説いている。
賀川がこの論文を書いた昭和初年は、ひと言でいえば「格差が絶対化した時代」であった。
昨今、「格差社会」がよく言われるが、数十年、時代をさかのぼれば、
「格差」はむしろ当たり前に社会に存在していたのだ。
賀川が示したデータを以下に並べる。
・人口1000人に対する医師数は0.77人(1927年)
・農民1000人当たり、1550件の疾病病数(1929年)
・東京麹町区の乳幼児死亡率が1000人当たり「約70」であるのに対し、
下町の本所区は「200(!)」
・全国1万2000の村のうち、無医村が約2900ヵ村(1926年ごろ)から、
経済恐慌の影響で3231ヵ村に増加(1930年)
・農村の医療費が農民の全収入の28%を占めるのに対し、
都会の労働者階級の医療費は同7.5%
・農村は、都市に比べて、5割~10割近い死亡率の増加