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医療再生への特効薬は、メディエーションと対話型ADR
上昌広(東京大学医科学研究所先端医療社会コミュニケーションシステム社会連携研究部門)

2009/02/18

かみ まさひろ氏○1993年東大医学部卒業。99年東大大学院医学系研究科修了。虎の門病院、国立がんセンター中央病院を経て2005年10月より現職。

 今回の記事は村上龍氏が編集長を務めるJMM(Japan Mail Media)2月11日発行の記事(メディアが報道しない東京都立墨東病院事件の背景 第六回)をMRIC用に改訂し転載させていただきました。

 前回までの配信で、わが国の医療が民事訴訟の濫発による崩壊の危機に瀕していることをご紹介しました。これは1970年から2000年にかけて米国が辿った道筋とそっくりです。米国は民事訴訟の濫発が医師賠償責任(医賠責)保険を破綻させ、ハイリスク医療から医師が撤退し、患者が大きな迷惑を被りました。

 しかしながら米国というのはダイナミックな国で、この騒動を契機に、医療界に新しい流れが生じました。今回は、アメリカ社会が医療訴訟の濫発にどのように対応したかをご紹介し、日本の進路を考えてみたいと思います。

【1970年代 医療訴訟の濫発、賠償額の高額化】

 前回の配信でもご紹介させていただいたことですが、1970年代、医療訴訟が急増した米国では、賠償金の支払額が18倍に増加し、多くの保険会社が医師賠償責任保険から撤退しました。踏みとどまった保険会社も掛け金を値上げせざるをえず、医師の保険料は1950年代の30倍に達しました。

 保険料が高騰化すれば、訴訟リスクの低い医療に従事する医師は保険から脱退しますので、保険システムは加速度的に不安定になります。この結果、全米で多くの医師や病院が医賠責保険に加入できなくなり、訴訟リスクの高い産科や救急医療から撤退するようになりました。

【1975年 カリフォルニア州に端を発した医療過誤危機】

 医療訴訟の濫発と賠償額の高額化が医師のハイリスク医療からの撤退を招いた米国で、特に顕著だったのがカリフォルニア州です。同州では、医療過誤訴訟から第一次医療危機(医療過誤危機)が発生しました。(詳細については、李啓充氏の著書『市場原理が医療を亡ぼす―アメリカの失敗』(医学書院)をお奨めします。)

 カリフォルニア州では1975年5月、麻酔科医が医療過誤危機に対するストライキに入ったことをきっかけに、この動きが州内および他の診療科に広まりました。この結果、カリフォルニア州の多くの市民が医療機関を受診できなくなる、いわゆる「医療難民」状態になりました。一連の動きは各種メディアで広く報道され、カリフォルニア州民が医療過誤危機について認識するようになりました。

 余談ですが、1970年代前半のカリフォルニア州は、後に大統領となるレーガンが知事を務めていました(在任1967-75年)。レーガンは、もともとはフランクリン・ルーズベルトおよびニューディール政策を支持し、リベラル派として政治家としてのキャリアをスタートしました。

 しかしながら皆さんご存じのように、後に彼は保守主義者に転じ(ハリウッドの赤狩に手を貸したことで有名です)、1960年代には共和党内で頭角を現し、大統領予備選に立候補しています。1980年代、彼が大統領に就任し、新保守主義が世界を席巻しますが、1970年代のカリフォルニア州にその萌芽を認めることができそうです。

【医療被害補償改革法(MICRA; Medical Injury Compensation Reform Act)の成立】

 このような時代背景も影響しているのでしょうが、医療を受けることができなくなったカリフォルニア州民の怒りの矛先は、医師や行政あるいは政治よりも、過大な賠償を求める弁護士に向かいました。

 カリフォルニア州の世論は「医療へのアクセスを確保すること」を強く求めたため、州知事は医療被害補償改革法(MICRA;Medical Injury Compensation Reform Act)という法律を議会に提出しました。

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