日経メディカルのロゴ画像

アカデミックではないかもしれないけどバランスのいい人生?

2009/10/06
日比野誠恵

ミネソタ州最大の都市、ミネアポリスにあるミネソタ大学

 KUROFUNetを通じて、「日本をもっと元気にしたい」と考えている日比野誠恵と申します。アメリカのミネソタ大学で、救急医学のアテンディング(指導医)として臨床に携わっています。ミネソタ州は、アメリカのUpper Midwest、中西部の北に位置します。そのミネソタ州最大の都市、ミネアポリスにミネソタ大学はあります。

 このブログでは、特に仕事と私生活とのバランスについて書きたいと思っています。最初ですので、今回はこれまでの私の足跡を振り返ってみます。

私がアメリカにあこがれた理由
 私は、商社に勤務していた父から、大きな影響を受けたように感じます。父は子どものころに戦争を体験し、そのときにアメリカのすごさを目の当たりにしたそうです。その後、父はアメリカの絶頂期にニューヨークに滞在していました。

 父は、在米中に蕁麻疹で困っていたときに、医師の新谷弘実先生(最近、ベストセラー作家になられました)と知り合いました。帰国後も、新谷先生とは家族ぐるみで親交が続きました。私が小学校高学年のころには、漠然と「あのおじさんみたいになりたい」と思うようになっていました。というのも、新谷先生はアメリカで臨床医として活躍し、生活も豊かで、さらにピアノも弾ければ弁も立つ人でしたから、子ども心にもあこがれたのだと思います。

 私が大学受験を控えた年、父の転勤のため家族がヨーロッパに行くことになりました。私は受験勉強のために、東京に1人で残ることになりました。スペースインベーダーやギャラクシアンというビデオゲームが流行り、テレビではカールセーガンの「コスモス」や、同性愛のキャラクターが出演するドラマの「ソープ」を放送していた時代。天邪鬼で好奇心旺盛な性格が災いして、受験勉強に全く身が入らなかったのですが、なんとか北里大学医学部に入学することができました。

 医学部に入学した後、「将来はアメリカへ」という目標を実現させるために、まずは英会話を勉強しようとロンドンに行き、4週間ほどホームスティしながら学校に通いました。最初は「よく分からないけど、日本語以外の言葉が使えるって楽しい」と思っていましたが、途中から「英語の勉強は本気でやらないとまずい」と気が付き、機会があれば英語に接するように心掛けていました。

 同級生だった、JIMSA/IFMSA(日本医学生連盟/国際医学生連盟)で活躍していた浅利靖先生(現弘前大学救急医学教授)に誘われて、随分あちこちの医学部にも行きました。IFMSAを通じて、臨床実習でストックホルムへ行かせてもらったこともあります。

著者プロフィール

日比野 誠恵

ミネソタ大学ミネソタ大学病院救急医学部准教授

1986年北里大学医学部卒。横須賀米海軍病院、セントジュウド小児研究病院、ピッツバーグ大学病院、ミネソタ大学病院を経て、1997年より現職。趣味はホッケー、ダンス、旅行など。

この記事を読んでいる人におすすめ