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貧しさから脱出しようと努めないことは、恥である

2010/04/22

 今、日本の医療が、そして日本そのものが崩壊しようとしています。その背景には、医療・福祉・教育という、人間が生きていくために必要不可欠である社会資本を国がないがしろにしてきた歴史がある、と私は分析してきました。

 経済が健全に発展するためには、経済と社会保障を車の両輪としてとらえなければなりません。国民生活の安寧を図らずに、その国の永続的発展はなく、だからこそ憲法第25条を守ることが重要だと私は訴えているのです。

 しかし、残念ながら、本ブログで「いのちの山河~日本の青空II~」を取り上げた際の反響を見ると、未だに自己責任論の必要性を強く訴える方が少なくないように思えます。

 そのような意見を拝見していて、私は塩野七生氏が『ローマ人の物語2 ローマは一日にして成らず[下]』(新潮文庫)の中で紹介している、ペリクレスの演説を思い出しました。

 ペリクレスは、紀元前460年ごろのギリシャ都市国家において、絶頂期を迎えていたアテネの国家政戦略担当官でした。その彼は、アテネ市民に向かって以下のように演説しています。


 「われわれアテネ人は、どの国の政体をも羨望する必要のない政体をもっている。他国の物まねをして作った政体ではない。他国のほうが手本にしたいと思う、政治体制である。少数の者によって支配されるのではなく、市民の多数が参加するわれらの国の政体は、民主制(デモクラツィア)と呼ばれる。

 この政体下では、すべての市民は平等な権利をもつ。公的な生活に奉仕することによって与えられる名誉も、その人の努力と業績に応じて与えられるのであり、生まれや育ちによって与えられるのではない。貧しくとも、国家に利する行為をした者は、その貧しさによって名誉からはずされることはない。

 われわれは、公的な生活にかぎらず私的な日常生活でも、完璧な自由を享受して生きている。アテネ市民の享受する自由は、疑いや嫉妬が渦巻くことさえ自由というほど、その完成度は高い。

(中略)

 われわれは、試練に対するにも、彼ら(筆者注:スパルタ人を暗示)のように非人間的な厳しい訓練の末の予定された結果として対するのではない。われわれの一人一人がもつ能力を基とした、決断力で対する。われわれが発揮する勇気は、慣習に縛られ、法によって定められたから生まれるのではなく、アテネ市民一人一人が日々の生活を送るうえでもっている、各自の行動原則から生まれる。

 われわれは、美を愛する。だが、節度をもって。われわれは、知を尊ぶ。しかし、溺れることなしに。われわれは、富を追求する。だがこれも、可能性を保持するためであって、愚かにも自慢するためではない。アテネでは、貧しいことは恥ではない。だが、貧しさから脱出しようと努めないことは、恥とされる。

 われわれは、私的な利益を尊重するが、それは公的利益への関心を高めるためである。なぜなら、私益追求を目的として行なわれた事業で発揮された能力は、公的な事業でも応用可能であると思っているからだ。ここアテネでは、政治に無関心な市民は静かさを愛する者とは思われず、市民としての意味をもたない人間とされるのである。

 結論を言えば、われわれのポリスであるアテネは、すべての面でギリシャの学校であるといえよう。そしてわれわれの一人一人は、このアテネの市民であるという名誉と経験と資質の総合体であることによって、一個の完成された人格をもつことになるのだ。

 これは、単なる言葉のつらなりではない。確たる事実である。われわれのこの考え方と生き方によって強大になった現在のアテネがそれを実証している」。

著者プロフィール

本田宏(済生会栗橋病院院長補佐)●ほんだ ひろし氏。1979年弘前大卒後、同大学第1外科。東京女子医大腎臓病総合医療センター外科を経て、89年済生会栗橋病院(埼玉県)外科部長、01年同院副院長。11年7月より現職。

連載の紹介

本田宏の「勤務医よ、闘え!」
深刻化する医師不足、疲弊する勤務医、増大する医療ニーズ—。医療の現場をよく知らない人々が医療政策を決めていいのか?医療再建のため、最前線の勤務医自らが考え、声を上げていく上での情報共有の場を作ります。

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