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卒後15年、インターンからの再出発を決断

2010/05/27
岡野龍介

古き良き’60年代のアメリカの記憶(写真左が幼少のころの筆者。写真右は吉田誠氏=現・国立病院機構福岡病院臨床検査科長)。

 子どもの春休みに合わせて1週間の休暇を取り、桜咲き誇るワシントンD.C.を訪れました。暖かい日差しの中、妻と4人の子どもたちと共に青々と広がる芝生をゆっくり歩いていると、突然、自分が子どものときにここに来たことがあるのを思い出しました。何十年も前から幾度となく眺めてきた、色あせたアルバムの写真――。小学校1年生くらいの自分が写っていたものと同じ風景が今、私の目の前に広がっているのです。

今より若いときはない
 父の仕事の関係で、私は幼稚園と小学校1年生の2年間をアメリカで過ごしました。記憶の中で何度も、ひときわ鮮明に思い出されるのは、青々とした芝生の中の一本道を、友人と2人で学校から歩いて帰る光景です。帰国してからはずっと日本で育った私ですが、この光景に出合うたびにアメリカへの郷愁と憧れをかき立てられてきました。

 短時間でダイナミックに変化する病態を管理する超急性期医療に興味を持ち、麻酔科に進んだ私は、大学を卒業後、地方の市中病院で麻酔業務に明け暮れる日々を送っていました。当時勤めていた日本の病院での生活は、大変忙しいけれども楽しいものでした。麻酔科医として、他科の医師や病院のスタッフたちと和気あいあいと協力しながら、夜遅くまで仕事をしていました。妻も同じ病院で麻酔科医として勤務しており、子どもも2人いました。あのまま働き続けていれば、おそらく定年退職するまで平穏な生活が続いたことでしょう。

 ところが私は、アメリカに渡ることへの強いあこがれをあきらめることができませんでした。現代の日本の麻酔学は、テクニックも薬剤も、そして器具さえも、アメリカの麻酔学のものとほとんど同じです。それならば、日本で得た麻酔専門医としての知識と技術は、アメリカでも通用するのか、私にもアメリカ人の患者を治療し、レジデントを指導できるのか? そもそも、子どものときに友人と歩いたあの風景は、まだアメリカにあるのか――。

 当時、卒後15年で40歳だった私は、気の合う整形外科の医師に、「あと10歳若ければ、アメリカでやっていく自信があるんだが…」と手術中にぼやきました。その医師は、手術の手を休めることなく、こう言いました。

 「今より若いときはないよ」

 この一言が私の背中を押してくれました。こうして、レジデンシーに応募することを決心したのです。

著者プロフィール

岡野 龍介

インディアナ大学病院麻酔科アシスタント・プロフェッサー

1962年ニューヨーク生まれ。1988年産業医科大学卒。1993年に新日鉄広畑病院で麻酔科を設立、手術室・ペインクリニック・救急部の設計に携わる。10年間勤務の後、渡米。2003年インディアナ大学病院麻酔科レジデント、2007年シンシナティ大学病院ペインフェローを経て、2008年より現職。米国麻酔専門医。趣味はサイクリング、料理、日曜大工、映画鑑賞など。

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