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海外留学初日の夜、自分がふがいなくて悔し泣き
聖路加国際病院アレルギー膠原病科 岸本暢将

2010/11/29
高島 三幸=フリーライター

岸本暢将
Mitsumasa Kishimoto
聖路加国際病院 アレルギー膠原病科(成人、小児)●1998年北里大学卒業。沖縄県立中部病院、在沖縄米国海軍病院、ハワイ大学で内科レジデンシーを、ニューヨーク大学Hospital for Joint Diseasesでフェローシップを修了。06年に亀田総合病院リウマチ膠原病内科、09年8月から現職。

 幼いころはチョコレートが好きで虫歯になりやすく、いつも歯医者に通っているような子供でした。優しい先生に治療してもらっているうちに、歯医者になりたいと思うようになりました。それが医者を目指すようになったのは、高校時代に友人がB型肝炎になり、一命をとりとめるまでの経緯を身近に見てからです。人の命を救い、病気を治すということに素直に憧れました。

 北里大学を受験したのは、試験科目に「微分・積分」がなかったから(笑)。歯学部受験を想定していたため勉強していなかったんです。入学後は、決して真面目な学生とは言えませんでした。ウィンドサーフィン部と野球部を掛け持ちし、授業にはほとんど出ず部活動に明け暮れました。ピッチャーをしていた野球部では、3部リーグから2部リーグへの昇格も経験しましたし、ウィンドサーフィン部では4年のときに主将を務めました。

 でも、スポーツを通じて仲間とのきずなを深めた経験は何にも代え難いものです。特にウィンドサーフィン部には薬学部や衛生学部の学生もいたので、医学部の外の考え方や情報に接することができました。野球部では試合に向けて練習するなかで、仲間や後輩に負けたくないという気持ちが芽生えます。今でも「人より勉強しよう」「努力しよう」と思えるのはこの経験のおかげだと思います。

友人や後輩に試験対策を伝授
 肝心の成績はいつも学年の上位3分の1ぐらいには入っていました。試験前になると人が変わるんです(笑)。まず、すべての授業に出席した友達や先輩にノートや資料をコピーさせてもらいます。そして、授業に出ていないくせに先生にどんどん質問しにいき、分からないところや試験対策に役立つ情報を教えてもらいました。

 かき集めた情報で試験対策用の資料を作り、みんなに渡していました。これは「岸本資料」と呼ばれて学年全体で共有され、なかには後輩に受け継がれたものもあります。岸本資料をもとに勉強会まで開き、友達に教えていました。授業に出ていないのにおこがましい話ですが、そのころから人に教えることが好きだったのだと思います。

 部活がない週末は、学会やセミナーなどによく参加していました。高齢者向けの医療に興味があったので、その分野のイベントにときどき顔を出していましたね。4年生のときには、介護保険のモデル地域だった長野県に講演を聞きに行きました。教えたり教えられたりが好きだったので、大学病院と協力して高齢者医療の“同好会”のようなものが作れないか、などと考えたこともあります。

 ところが、5年生のちょうど半ばくらいでしょうか、そんな部活中心の生活が大きく変わるできごとがありました。授業で小口弘毅先生(現在はおぐち・こどもクリニック院長、北里大学医学部・看護学部非常勤講師)に出会ったのです。小口先生は“熱血小児科医”で、また、授業はすべて英語で教えるような方でした。当時の僕は英語圏に漠然とした興味を持っており、そのことを先生に話したところ、「じゃあ君、留学したら」という話になったのです。

 「オーストラリアのメルボルンにあるモナーシュメルボルンセンターの新生児集中治療室に知り合いの教授がいるから」と、小口先生は僕に留学を勧めてくれました。「憧れだった海外へ行ける!」。僕は喜んで、ポリクリの合間に1カ月自費留学することにしました。5年生の12月ごろのことです。今振り返るとあの留学がなければ今の進路はなかったと思います。送り出してくれた大学に大変感謝しています。

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